| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

ひろさんとの出会い

高橋ひろさんファンの方々の『ひろさんとの出会い』を紹介していきます。

ゆみかかさんに続きまして、 都市色さん の“高橋ひろさんとの出会い”を紹介します。

*****************************************************************

ども、都市色です。
いつも拙いレヴューを掲載させてもらっています。
有り難うございます。

そんな僕の「高橋ひろ」との出会い。
そんなに劇的なモノではないのです。
大学時代のサークルで仲の良い先輩がいました。
音楽がお互いに大好きで、サークルの部室で良く話をしたりしてました。

94年頃のあるとき、「都市色くんが気に入りそうなアーチストがいるよ。」
ということで教えてもらったのがひろさんのセカンドアルバム
「welcome to popcicle channel」でした。
それはもう、僕にストライク、ど真ん中!のポップスでした。

一曲目のイントロのひろさんのファルセットからヤラレました。
響きの美しいメロディ、瑞々しい歌唱、観察眼の鋭い歌詞、完成度の高いアレンジ。
まさにMr.melody factory。

当時の僕が夢中になっていたのは60年代の洋楽、そして日本の70年代の
ポップスでした。
詳しくは、
・60年代~70年代の洋楽ロック/ポップス。
・70年代初頭から活発化してきた日本語によるロック/ポップス。
・そして同じく70年代の日本のポップスのメインストリーム、歌謡曲。

ところで、僕が大学当時の90年代は何と言うか音楽界では「再評価」がブームでした。
過去の素晴らしい音楽が、ヒットしたとかヒットしなかったとか関係なく時代やジャンルを
超えて紹介されました。
僕は上記の音楽を大学時代に東京で夢中に聴いていました。
そして、先ほどの三点の要素をまろやかにミックスして熟成させたのが高橋ひろさんの音楽でした。
美しい洋楽のメロディ、歌謡曲の憂いを秘めたマイナーコード、そして美しい日本語の
響き。
その魅力の結晶が「アンバランスなKISSをして」「太陽がまた輝くとき」のヒットでした。
僕は残念ながら大学当時は殆どアニメを観ていませんでした。ジャンプも読んで
なかったので「幽遊白書」は名前だけしか知りません。
これらの二枚のシングルがヒットしているのには少し驚きました。
70年代風の歌謡ポップスの世界が90年代にも受け入れられているのが面白かったです。

90年代はご存知の方もあるかもしれませんが「渋谷系」というブームがありました。
これも過去の音楽の再評価の一環で、お洒落な60年代の洋楽のサントラや
ソフトロックの再評価だったのに対し、ひろさんはそれよりちょっと視点をズラして
70年代の歌謡ポップスを世に問うた訳です。
この渋谷系とひろさんとは全く無縁かというとそうではありませんでした。
ひろさんの楽曲のアレンジャーとしてピチカートファイヴの高浪敬太郎さんが参
加されていました。僕はピチカートの高浪さんのファンでもあったのでひろさんとの
出会いは必然だったのでしょう。
高浪敬太郎さんの弟さんもひろさんと親交がありますね。

ひろさんと敬太郎さんの共通のテーマというと「筒美京平」とネオアコでしょう。
筒美京平さんの音楽には60年代の洗練されたアメリカンポップスを日本的な味付
けで再構築するという特徴があるといえます。洋楽風の洗練された美しいメロデ
ィやサウンドを取り入れた筒美作品にひろさんも高浪さんも深く影響を受けたは
ずです。80年代初頭のイギリスでのネオアコースティックムーヴメントは20代前
半だったお二人を魅了したに違いありません。
高浪さんがアレンジャーで参加しているひろさんの「浮気がしたいの」はお二人
の筒美京平さんへの熱いオマージュが感じられます。この曲を聴いたときの衝撃
は凄かったです。ユーモアのセンスもバッチリ!

この曲を含むセカンドアルバムは本当にハマりました。バラエティに富んだ五目味、
いや七色のポップアルバム。そして音楽への深い敬愛に充ちたアルバム。

初めて動くひろさんを観たのは、先述の先輩と観たフジテレビの土曜深夜の番組
「殿様のフェロモン」でした。あまりに過激な内容なので書けません。とある回
でひろさんはゲスト出演してました。「アンバランスな~」がこの曲のエンディ
ングテーマだったのです。出演者のある女性の過激なパフォーマンスに少し動揺
してましたね。「ミュージックステーション」や「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」に出た
のも観たことがありました。やはり司会者とのやりとりは面白かったです。

これ以降ひろさんの作品を集め出しました。
ソロデヴュー前に組んでいたバンド「ポプシクル」も大好きです。
都会育ちのポップスファン同士が集まって出来たアマチュアらしさとソングライティングの素晴らしさはシュガーベイブをかなり彷彿させます。

ようやくひろさんのライヴを観られる様になったのはひろさんがメジャーを離れ
た98年以降でした。日清パワーステーションは今は無いのですね。
ライヴのMCで語られるユニークなお話。ひろさんの人柄を知ることが出来るひととき
でした。
やはり凡人とは違う鋭い感性を持ってましたね。
ライブでカヴァーする洋楽邦楽のカヴァーも良かったです。
僕が聴いてきた音楽と共通点も沢山で嬉しかったです。
勿論僕なんかより沢山音楽を知っているし。
勝手にポップス同好の士と尊敬しています。
そしてユニークな人柄も。
誠実で人に優しく自分に厳しい面も強く感じます。
人一倍ファン思いのひろさん。
雑学も面白いですね。野球とか昔のTVや歌謡曲についてもっと聴きたかった。
ラジオも聴きたかった。

ホント、書き出したら止まらない雑文で失礼しました。
他にも書きたいことが沢山ですがこの辺で。
スポンサーサイト

| おもひで | 00:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

高橋裕幸氏との出会い

高橋ひろさんファンの方々の『ひろさんとの出会い』を紹介していきます。

あわっぴさんに続きまして、 ゆみかかさん の“高橋ひろさんとの出会い” を紹介します。

******************************************************************

中学生の頃、私はTULIPというバンドを知り、財津和夫氏のファンにもなった。片田舎のイチ中学生の身では、ファンクラブなんて無理。ラジオでテープにエアチェックするのがせきのやまであった。高校生になり、お年玉を使ってこっそりファンクラブに入ったところ、TULIPはごっそりメンバーチェンジをしてしまった。あっけにとられながらも会報を取り続けていると、新しいメンバーとして「高橋裕幸」が加入してきた。
その春めでたく都内の某大に入学した私は、一人暮らしの特権を活かしTULIPファンの集い、日比谷の野音に出かけた。1987年の4月末のことである。そのステージ上、会報でチラッとしか顔を見ていない「高橋裕幸」が財津氏により紹介された。ステージ上のコードを足に引っ掛け、よろめきながらの登場であった。これが初めて彼を見た日である。正直、年下の私がハラハラするとは思わなかった。
その後、彼が在籍するTULIPのツアーにも若干参加。しかし、すぐにファイナルツアー、解散を迎えてしまう。はじめて参加するフルメンバーのツアーが解散コンサートという現実に、北は仙台、南は福岡まで、民族大移動の波に乗り、授業をぶっ飛ばしながら一人いわゆる「追っかけ」に明け暮れた。ステージ上の彼はいつも楽しそうであり、特に『銀の指輪』や『仔牛のローカウジー』など何度聴いても良かった。『さよならメロディー』も今までの彼の作品の中で群を抜いて良かった。ぶっちゃけ、他のいわゆるTULIPのどの曲より、私は好きだった。ラストの中野4日間のうち、1日はどうしても授業の都合がつかず友人に譲ったところ、奴はちゃっかし姫野さんのピックをゲットしてきた。それはともかく、これで私のなかの「高橋裕幸」は一旦ピリオドをうつ。

やがて時は平成を迎え、私も学生生活を終えて怒涛の社会人生活をスタートさせた。一人暮らしをしながら仕事で使う音源を捜しに新宿をうろついていたその時、なにげなく通った「チケぴ」の前で、「高橋ひろ」の名前を見つける。TULIP時代に財津さんが「ひろ!」と呼んでかわいがっていたあの青年の姿が目の前によみがえり、その場で日清パワステのチケットを購入。もちろん1枚。その足でレコード屋に向かい『君じゃなけりゃ意味ないね』のアルバムを購入。帰宅して聴いて間違いないことを確認。私は「高橋ひろ」と新たなる再会をしたのである。ただしそのライブには仕事が押して参加できず、結局ソロライブには彼がメジャーにいる間は一度も行けなかった。ちなみにその頃の私はテレビを見る時間もなく、某アニメのエンディングで彼の歌声が流れている事も、歌番組に出ていたこともまるで知らなかった。
人生の転機が突如やってきてしまった私は、結婚と退職と引越しを慌しくすませたが、結婚式の入場に『ことほぎ』を使う事は忘れなかった。式場に音源がなかったため、CDは持ち込んだ。都会から離れたこともあり、また少し、彼から遠ざかる日々となる。
ゆるゆると専業主婦だのパート講師だのして過ごす日常のなか、近所のドラッグストアで買い物中、店内BGM(いわゆる有線)で聞き覚えのある声に反応。『くちびるがほどけない』であった。市内に数店しかないCD屋へ直行しアルバム『New Horizon』を購入。どっぷり浸かる。同時にセカンドアルバムが出ていたことも知り、あわせて購入。はっきり言って、4枚目のアルバムがめちゃくちゃ楽しみな出来ばえだと思った。

 そしてもう一度、私は「高橋ひろ」と出会う。
それは自宅にデスクトップのPCを購入して(もらい)インターネットなるものに自宅のドアを出ずとも接続が可能な状態になった時。検索をかけて「高橋ひろ非公式サイト」を発見。掲示板やチャットという、生まれて初めて出会う「もばいる」な世界がそこにあった。当時出産を控えていた私は見ているだけであったが、出産後、不規則で自宅からほとんど出ない生活のなか、おそるおそる掲示板やチャットに参加していく。まだネットが何だかよくわからずにいる私に「ひろファン」の皆は暖かく、そしてエラく盛り上がった。時には本人も書き込みをしてくれるということもあり、ライブの情報なども手に入れることができた。都心から60キロほど離れていながらも、赤ん坊を実家に預けながら夜のライブに参加して帰宅するという荒ワザを幾度かこなした。
 ある時ふとしたきっかけで、私は再び社会にでる機会ができた。しかし一旦最終試験で落ちたあとの追加採用。相談してきた夫が地球の裏側に行っていて戻るまでに決断をしなくてはならなかった。あろう事か私は、ひろさんの非公式サイトに書き込んだ。日常のことも語ってきたファン仲間の皆が励ましてくれた。あろう事かひろさんも私に一歩を踏み出す一言を書き込んでくれた。私は共働きという、人生の設計図にまるで無かった道を歩みだした。そしてその夏、あの名曲『華麗なるone step』に射抜かれることになる。もう引き返したりなんかしない。私はず~~っと「高橋ひろ」のファンだ。

| おもひで | 18:00 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

高橋ひろとの出会い

高橋ひろさんファンの方々の『ひろさんとの出会い』を紹介していきます。

ヤスエツさんに続きまして、 あわっぴさん の“高橋ひろさんとの出会い” を紹介します。

***********************************************************************

存在を知ったのは一般人と同じく某アニメ。その頃友達と共同購入していた雑誌に連載していたマンガのエンディング。

聞いたときはいい曲だとは思っていたがファンになるほどでもなく、友達に借りてダビングした程度。
田舎の学生だったからお金もなかったし、音楽は惹かれるものがあったのだが僕の中では高橋ひろは心の奥に埋もれていくのです。

ただ当時ケーブルひいててスペースシャワーで「くちびるがほどけない」のPV見たのは僕の宝物
親と自分に感謝だね。

それから何年かはブランクが空き再び彼の音楽に触れたのはパソコンを買った'99
この頃福岡で1人暮らししていた僕は無性に「太陽がまた輝くとき」が聞きたくなりリピートかけてたときで、新しく繋げたネットで高橋ひろを検索しました

そこで出会ったのが「ぽっかぽか広場」
非公式でありながらも半公式の存在だったファン作成高橋ひろサイト

高橋ひろクイズもあればBBS、ディスコグラフィコメント、チャット場等かなり充実しているサイトだった。

この時はもうすでにメディアレモラスも解散し、メジャーから一歩引いた活動をしていたひろさんですがファンクラブ「HIRO PAL」は存在し丁度この年の11月にみかん狩りイベントがあったようでサイト内もかなり盛り上がっていました。
その波に乗り高橋ひろファンと仲良くなり、そこからさらに沢山の仲間に出会いました

一番のきっかけはこのつながり。

メジャーにいなかったしCDも手に入りにくかった

中古屋を探しファンクラブ限定のCDがあると知ればファンクラブに電話し、ないと言われればひろさん直々にまだあるよと言ってくれる


高橋ひろの音に出逢い、ファン繋がりに触れ、彼の人間性を知り、彼を取り巻く表現し難い暖かいもの。
それが彼の音楽へとまたつながっていく……
そして僕を満たしていく


これが高橋ひろが好きだと言える所以。きっと飽きることなくこれからもつながっていくんだと想うのです

| おもひで | 23:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

ひろさんと私

高橋ひろさんファンの方々の『ひろさんとの出会い』を紹介していきます。

たまさんに続きまして、 ヤスエツさん の“高橋ひろさんとの出会い” を紹介します。

*******************************************************************************

まずは、自己紹介。

ひろさんに関してはヤスエツの名で主にmixiで活動中。の世を忍ぶ仮の姿は生保営業員、実は俳優、司会、選挙ウグイスという正体を持つ26歳。
千葉県の九十九里でサラリーマン家庭の長女であったごく普通の中学生時代にひろさんの音楽と出会いを果たし、以来人生の大切な節目、いまいち弾みがつかない、踏ん切りが必要な場面で歌詞に背中を押され『人生を楽しむ』『後悔しない人生』『些細なことにも喜びや幸せを感じる』ことを教えられたつもり。

遍歴。
13歳:幽遊白書にはまり、流れで「アンバランスなキスをして」を購入。頑張って中間テストの順位を上げ、親に当時出ていたひろさんのCDを全て買ってもらう。空前絶後の大ブーム。”いつも上機嫌”に夢中。(以来私の生涯の理想女性像として曲中の“君”が!!) ”セックスフレンド””ことほぎ””にじんで見えない”で「大人の恋はこんなか!?」と妄想大爆発。ほら、思春期だし。(笑)

15歳:受験間近。“♪一度決めたらもう進路は変えない”(君じゃなけりゃいみないね)
に後押しされて合格は難しいとされていた新設学科を受験。
“♪Go! Go! Let’s go ! Fight !Fight ! Go! Go! Let’s go !”(私ならこうする)
を机の前に貼って猛勉強。見事合格。
しかし高校進学後、ある記事でひろさんが
「英語の歌詞はなんとなくかっこよく聞こえるから使わないようにしている」
「少なくとも自分が”愛”を分かるまでには歌詞には入れないようにする」
的なことを言ってたので
”♪君を愛してる~”(ホワイトジーンズ)
”♪I LOVE YOU ,BABY~”(くちびるがほどけない)
が許せなくなる。ほら、思春期だし(苦笑)

16歳:そうは言ってもその後もひろさんを聴く、それこそ1stアルバム”君じゃなけりゃ意味ないね”ばっかり。
他にラルク、ラクリマクリスティなどのV系ロック、菅野洋子、新居昭乃にはまる。

20歳:演技、しゃべり系の専門学校卒業。有線ラジオ局にアナウンサーとして就職。
番組の制作から全てできたので自分の番組には何気にBGMにラルクやラクリマ、ひろさんを乱用。(※著作権協会にちゃんと登録して基準を守っていた会社です!!)

23歳:初夏、車上荒らしにかばんごと盗まれ“君じゃなけりゃ・・・”も被害に!! その年の秋、大きく失恋。ラルクのアルバム”SMILE”聴いては泣きまくる。ひろさんの”ごめんねまくら”を試しに聴いてみたらそれもやばかった。

25歳:夏。高橋ひろさんの1stアルバムを近所で入手。るんるんしてる気持ちに水を差すように翌日、訃報を知る。折りしも知ったのはmixi参加翌日。その前年秋に他界していたとは。。。。毎日毎日1stばかり。自分の中にどれだけひろさんの音楽が染み付いていたか確認するひと月を過ごし、誕生日オフに参加。知り合った有志たちに仲間入りを果たし、一周忌であるその年の11月4日自主的オフ開催。(といってもごく小規模)
それ以来、現在に至るまで、歌詞の意味を想いながら絵を描いたり、同じ“表現芸術者”としてどう“死”や“生”、そして“日常”と向かい合い表現してきたかに想いを想いを馳せながら地味に活動。


まとめ。
『高橋ひろ』が与えた影響は数知れず。。。
13歳の私には単なる『文字』だった言葉が『実感のできる表現』あるいは『意味のある言葉』として“衝撃”を与え。言葉で、表現で食べていくようになってからは気づくことによって得られる『ある意味での自戒』であり、『新鮮さ』であり、『表現できる喜び』である。
これは傍らにずっとあったひろさんのメロディや歌詞の表現力によって育てられた私には考え方だとか表現に染み込んでるものでこれは某氏の言葉を引用するのであれば『細胞にまで染み渡っている』。

それにしても思春期の私に与えた影響の本当に大きいこと大きいこと。
否定する気はありませんが、電子音が流行りまくってた時期にひろさんの音楽を慕い続けた中高生の自分、それを肥やしに生きてきた自分はえらいな、と過去の自分を褒めてあげてます。

“しゃべり”で食べていく私の進路は結婚しても子供を生んでも変わらないでしょうから、一生ひろさんの表現を私の声を聴いてる人たちに花束にして贈り続けてゆきます。

| おもひで | 23:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

ひろさんとの出会い

高橋ひろさんファンの方々の『ひろさんとの出会い』を紹介していきます。

くぽさんに続きまして、 たまさん の“高橋ひろさんとの出会い” を紹介します。

******************************************************************************

ひろさんとの出会いは・・・1993年10月1週目の朝(たぶん4日の月曜)、ちょうど番組改正の時期でありました。
 当時、高校1年生(!!)だった私は、朝5:45に起床し6:35に家を出る生活を送っていました。その頃朝はフジTVを見ていた私は(その前までウゴウゴルーガを見ていた影響もありますが・・・)、その日も朝もいつも通りTVをつけると始まった番組は「オルトレ・イ・チンクワンタ(略してオルチン)」と、いうものでありました。その時のOPテーマがそう「いつも上機嫌」であったのです!!!朝ごはんを食べようとしていた私は、あまりの衝撃に茶碗をひっくり返し、床にご飯をばらまき親に怒られた記憶が・・・(笑
 よくわからないまま始まったその番組がニュース番組でないことは放送開始5分で理解したものの、司会者は「車だん吉」氏でした。小学生だったころ楽しみに見ていた「お笑いマンガ道場」の出演者でもあり、とりあえずチャンネルは変えずEDまで見続けてみたところ、テロップに「いつも上機嫌/高橋ひろ(メディアレモラス)」の文字を発見。「あ~。高橋ひろさんという人なのね・・・」と、いうことを確認してその日は学校へ向かいました。
 ニュースをやっていない番組だったために、6:00からは他局のニュースを見るように親に怒られながらも、(実家は父優先の家庭だったために、朝は新聞もTVも全て私には権限がなかった)OPとEDの時間だけはフジTVにしてもらえるように説得。合計しても3分足らずが私の生活の一部となったのです。しかし当時は情報社会からはほど遠く、お金も知識も乏しい高校生。その番組でテロップを見かける以外、ひろさんの情報を知るよしもなかったのでした。

 そんなひろさんと衝撃的な2回目の出会いをしたのは、同じく93年年末の土曜18:53のフジTV。いつものように幽白を見ていた私はEDが変わることを全く知らず予告を見てました。(当時はもうアニメ誌を買って読んでいなかったので 笑)次の瞬間世界が一転!「アンバランスなkissをして/高橋ひろ」のクレジットがすぐに表示され、私の頭はパニック寸前!!「えー!あの『いつも上機嫌』の人?!」って感じで・・・。
 翌日、柏駅にあるCDショップでCDを探すと・・・「君じゃなけりゃ意味ないね」のアルバムを発見!(いつも上機嫌のシングルも)しかし資金振りが苦しい高校生。その日はCDを購入できずに傷心帰宅。(結局、その後アルバム1枚、シングルCD3枚を購入するのに、3か月を費やしました 苦笑)。
 激動の93年が終わった時点で、私は「高橋ひろ」という人物がどんな人であるか、まったく知らずにいました。この時点で唯一持っていた写真は『週刊少年ジャンプ』についていた『スラムダンク』ポスター裏面の『幽白情報』に小さく掲載されていたひろさんの写真のみというありさま。

 そんな状態で迎えた94年年明け。ひろさんが伊集院光のラジオ番組に出演する情報を知り、絶対に聞いてやる!!と息巻く私をまたもアクシデントが・・・。私とひろさんの運命を弄ぶかのように、祖母の葬式が発生。お通夜を終えてダッシュで帰宅した私がラジオをつけて聞いた音は・・・「本日のゲストは高橋ひろさんでした~」の伊集院氏の声。肝心のひろさんの肉声は私には届かず!(涙)
 その後幸運なことに、94年6月に発売した「太陽がまた輝くとき」により、ラジオおよびTVで動く姿を拝見することができました。そして初めての出会いから1年以上も経った、95年2月16日の日清パワーステーションにて生ひろさんと対面することができたのです。

そんなこんなで、2007年現在もひろさんのことが生活の第一優先にある私が存在するのでした。
そう。ひろさんが「いつも上機嫌」をレコーディングしたときと同じ年齢になった私がいるのです。

| おもひで | 23:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。